備中高松城が水攻めをされたワケとその後の日本史を決定付けた和睦案

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備中高松城。この名前を聞いて、すぐに逸話を思い出す人は少ないかもしれません。

では、本能寺の変が起こった時、豊臣秀吉が攻撃していた真っ最中の城と聞いたら。

この城は、まさに歴史の転換期にその名を刻み、水攻めという城攻め方法でも記憶に残る城です。

織田と毛利の対立

着々と勢力を拡大していた織田信長ですが、それまで良好な関係であった毛利家が元就から輝元に変わると徐々に関係が悪化してきます。

輝元は、信長が京都から追放した室町幕府最後の将軍、足利義昭を庇護し、信長が頭を痛めていた石川本願寺を支援するようになります。

石川本願寺を倒すためにも、京都へと勢力拡大しようとしている毛利家を倒す必要があり、羽柴(豊臣)秀吉に命じ毛利家制圧を開始します。

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この作戦の立案者は実はあの人!

備中高松城は平地に築かれた平城ですが、現在でも降水量によっては簡単に浸水してしまうような低地にあります。周囲は湿地帯になっており、そのため沼が天然の堀となり、攻撃が難しい城でした。

秀吉は1577年より軍を率い中国攻めを行い各地を転戦しつつ、1582年4月にこの地に到着しますが、なかなか攻略できず、信長に援軍を要請します。

その結果、明智光秀が派遣されることとなりますが、さらに信長から迅速な攻城するよう指示があり、秀吉軍は周囲に堤防を築き、そこへ梅雨の雨がたまり城が人口の巨大湖の中に孤立する作戦に踏み切ります。

この日本史でも珍しい城攻め。墨俣一夜城と共に、秀吉の機転によるものと思われがちですが、実際に立案したのは黒田官兵衛こと黒田孝高と言われています。

水攻めはよくあること?

城の周りを水で取り囲み、城事態を水没させる方法は珍しく、黒田孝高も中国は春秋時代の城攻めを参考に、立案したといわれています。

後年、秀吉の小田原攻略に付随する、石田三成による忍城攻めでも行われますが、三成が備中高松城攻めを参考したとも、秀吉が指示したともいわれています。

備中高松城の運命 そこにはあの一大事件が!

援軍として毛利輝元率いる4万の軍が到着しますが、城を囲む湖と秀吉軍に対抗する策が打てず、さらに織田信長率いる大軍が接近している情報もあり、和睦を申し入れることを決めます。

なかなか和睦が進まない中、秀吉のもとに一大事件の報が飛び込みます。

明智光秀の謀反により、織田信長が本能寺に倒れた本能寺の変が起きたという重大事項です。

まだ、その事件を知らず織田の援軍の到着を避けたい毛利。本能寺の変を知られる前にことを収めたい秀吉。お互いの利害が一致し、最終的には、当初五か国譲渡だったの三カ国に、城主清水宗治は切腹という結論になります。

宗治が切腹した日の夕方、毛利側にも本能寺の変の報が伝わり、秀吉を攻撃する意見も出ますが、小早川隆景の和睦を尊重するべきという意見が採用されることとなります。

毛利家の動きを見極めた秀吉は、翌日京都に向けて進軍開始し、明智光秀を打ち天下統一への道を歩むこととなります。

まとめ

歴史に、もしもは存在しませんが、この時、毛利が思い切った攻撃をしていたら、その後から現代に続く日本史が変わっていたかもしれません。

そういった意味では水攻めから和睦とこの城が日本史の転換点だったのかもしれませんね。

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