宇和島城って実は五角形の縄張りだった! そんな形の城になった理由とは

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宇和島城といえば、欧州の独眼竜、伊達政宗の庶子に連なる伊達氏の居城で数少ない現存天守を持つ城ですが、実はかなり特徴のある縄張りを持っています。

この縄張り、伊達氏によって作られたものではなく、戦国期屈指の築城名人によって作られたものなのです。

宇和島城の特徴は五角形の縄張り

日本の城郭において、縄張りとは曲輪やお堀、門などの配置を指します。

その内部に本丸などが配置され、どのような縄張りを作ることが城の防御において重要事項でした。

多くは円郭式、梯郭式、連郭式などにわけられます。宇和島城は防御性を優先した連郭式であり、これは岡山城、熊本城、広島城など当時は主流ともいえる縄張りです。

しかし、宇和島城はその縄張りの形が五角形であるということで珍しいのです。

他に五角形の縄張りを採用している城は、ぐっと時代が下がって星形要塞としても有名な函館の五稜郭があります。

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わざわざ五角形にしたメリットとは

五角形、五角形といいますが、きちんと整った五角形ではなく野球のホームベースに似た五角形ですので、五稜郭とも違います。

これは、敵方に四角形の一般的な縄張りと錯覚させることで、死角を作ることを目的としています。

この死角からは、攻撃を行うこともできますし、籠城となった際の物資の運搬、落城時の脱出などを可能とさせます。

また、現在では周辺は埋め立てされていますが、当時は東側には海水を引き込んだ堀があり、西側は海に面していたため、五角形の縄張りと共に城を守っていました。

実際に、幕府の内偵が送ったとされる書状には「四方の間、合わせて十四町(一町は約110メートル)」と書かれており、まさに計画通りでした。

宇和島城の縄張りを考えたのは戦国屈指の築城名人!

戦国期の築城名人としては、熊本城の加藤清正、福岡城の黒田官兵衛などですが、幕府の内偵さえも欺いたこの縄張りを持つ宇和島城は、藤堂高虎によって築城されています。

もともとは900年代に砦が築かれたのが発端と言われていますが、その後当時の施政者の居城となり1595年に藤堂高虎が入城し翌年から大改修を行っています。

特徴となっている縄張りはこの時に造られました。高虎は1600年に今治へ移封となりますが、1601年に城が完成してから移動しています。

その後、伊達政宗の庶子、伊達秀宗が入城しその後明治維新まで続きますが、天守閣を作ったり大改修したりしていますが縄張りはそのまま維持していました。

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まとめ

そんな宇和島城ですが、航空写真ではハッキリと五角形と認識出来ますが、実際に歩いてみると本当に五角形?と思わされてしまい、当時の幕府の隠密が騙されたのが分かるかもしれませんよ。

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