原爆の破壊目標とされてしまった広島城 その被害はどの程度だった?

Sponsored Links

世界遺産として、戦争の残酷さ、悲惨さの証人として、世界各国から人々が訪れる広島の原爆ドーム。

その姿はテレビ、写真などで一度は見たことがあると思います。

そこから約900m、離れた場所にある広島城。

この城が、原爆の破壊目標地点だった事をご存知でしょうか?

なぜこの城が破壊目標だったのか、そしてその結果は…

軍都広島の中心地

明治四年の廃藩置県により、本丸には県庁がおかれましたが、その年の暮れ、陸軍施設が本丸に設置され県庁は移転。それ以後、軍施設が増設されていき、広島城はそれに伴う解体や火災などで徐々に江戸時代の姿を消していきます。

広島を軍都と決定付けたのは、明治二十七年に始まった日清戦争でしょう。

この年9月、明治天皇と大本営が広島城内に東京の皇居より移動してきます。当時の東京を起点とする鉄道の最西端であること、大型の軍船を運用できる港が近いこともあり、兵站の拠点として選ばれました。翌月には広島で臨時帝国議会が開かれ、一時的に広島市が臨時首都となりました。

明治天皇は、翌年4月に日清講和条約が締結されるまで広島に留まりました。

これ以後も、陸軍の西の拠点として広島城跡は使用されていきます。

昭和六年、天守閣が国宝となる

軍施設として解体が進められていった広島城ですが、昭和六年に天守閣が国宝に指定されることで、いくつかのものが江戸時代の姿を残せることになりました。

この当時残っていたのは、天守閣、中御門、表御門、いくつかの櫓でした。

Sponsored Links

原爆により広島城崩壊!最近分かった新事実とは

原爆による破壊で、一面焼け野原となった広島城。爆心地1キロ以内であり、破壊目標地点であった広島城も例外ではありませんでした。

戦後70年近く、原爆で吹き飛ばされ燃えたといわれていた広島城でしたが、最近、その詳細な被害内容と実態が明らかになりました。

被爆後の航空写真、目撃証言などを集め研究した結果、爆風により天守閣の下二層が柱を破壊されたことにより崩壊。上3層は形を保ったまま、下にずり落ちしばらくは形を保っていたものの、間もなく残りも柱が支えきれず崩壊したと考えられはじめました。

また、天守閣跡地に大量の燃えていない木材が残っており、二の丸の表御門・平櫓・多門櫓・太鼓櫓は消失しましたが、天守閣自体は燃えていないことが推測されています。

原爆ドームにきたら、ぜひ広島城まで

戦後、天守閣は昭和32年に復元され、色々な企画展を行っています。また、消失した櫓や表御門は平成6年に木造で江戸時代の姿に復元されています。

現在、広島市内はビルが立ち並び、天守閣から原爆ドームの全景を見ることはできませんが、当時の様子に思いをはせることは可能です。

原爆ドームから徒歩で約15分。明治以後軍都として歩み凄惨な被害を受けた広島の当時の中心地に足を運ばれてみてはどうでしょうか。

Sponsored Links

この記事が気に入ったら
いいねで城の小ネタをお届け!

城ログの最新情報をお届けします

カテゴリー

ページ上部へ戻る