土方歳三 が五稜郭の戦いまで新政府軍と戦った理由とは

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新撰組の中で、沖田総司と共に人気を二分する土方歳三。

新撰組旗揚げ以前からの近藤勇の盟友であり、隊内の規律に厳しく鬼の副長と呼ばれているのはご存知のことでしょう。

彼は新政府軍との転戦を繰り返し、北海道にたどり着きます。

土方歳三が五稜郭まで新政府軍と戦い続けた理由

1868年に鳥羽伏見の戦いを皮切りに始まった戊辰戦争。

その中で、新撰組は兵力を減らしながら北へ北へと転戦していきます。

各藩も紆余曲折の末に新政府に恭順していく中、土方歳三は何故、蝦夷地まで戦い続けたのでしょうか。

この答えとしては死に場所を求めた、土方歳三の滅びの美学とよく言われていますが、もう一つの理由として、近藤勇の処遇が土方の生き方に影響を与えたことを否定できません。

新撰組局長であった近藤は現在の千葉で捕らえられると2週間後に斬首されています。

同じく新撰組旗揚げからともに苦楽を共にしてきた土方は自分の身を照らし合わせ、最後まで戦うことを選んだのかもしれません。

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土方歳三の蝦夷共和国(旧幕府軍)での立ち位置

仙台で旧幕府海軍を率いる榎本武揚らと同流すると、その後は行動を共にします。

北海道に上陸し、その地を勢力下に治めると、新政府軍と対峙することとなります。

俗に蝦夷共和国と呼ばれますが、そこで歳三は陸軍奉行並みとなり函館市中取締、陸海軍裁判所局取締の要職につきます。

五稜郭の戦いでの土方歳三の戦いぶり

しかし、そのような蝦夷共和国を明治新政府が黙って放置しているわけもなく、翌年1869年4月には新政府軍が北海道に上陸を開始します。

江刺に上陸した新政府軍が函館に向かう最短ルートは江刺街道になるため、歳三は兵300と共に江刺街道の二股口へ向かいます。

歳三はここで新政府軍に甚大な被害を与え撃退しますが、同時期に木古内、矢不来の陣が落ち、相手方に挟み撃ちになる可能性が出てきたため、函館へ撤退することになります。

5月11日、新政府軍は函館総攻撃を開始します。歳三は五稜郭から打って出、七重浜、函館市街で奮戦します。

そして、一本木関門で交戦中に銃弾に倒れました。この場面はドラマなどでもかなりドラマチックに演出されるため、記憶されてる方も多いかもしれません。

現在、函館駅から徒歩5分の地にある一本木関門。5月の五稜郭祭りの際には当時を偲ぶ人々で賑わうそうです。

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最後に

五稜郭の戦いといえば、土方歳三というくらい榎本武揚などの存在を一瞬忘れえてしまうような存在感です。

関東出身の彼が京都から北海道まで転戦し、この地で何を思って戦っていたのか。

五稜郭を訪れた際にはそんな思いに浸ってみるのもいいのではないでしょうか。

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