関ヶ原の戦いの前哨戦 伏見城の戦いで生まれた徳川の忠臣たちによる血天井

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日本西軍東軍の二つにわかれ、天下分け目の戦いと言われた関ヶ原の戦い。

その後の日本の歴史を決定付けたのは、総大将徳川家康と毛利輝元が陣を敷いた関ケ原での一日ですが、そこに至るまで、様々な武将や城が戦を交えています

特に名高いのは、1,800の軍勢で総勢4万の大軍と対峙した伏見城の戦いでしょう。

血天井とは

血天井というと、伏見城の一部を使ったものを連想しますが、本来、戦国時代に武将の死に際の血痕が付いた板を使用した天井を意味します。

なぜそのような板を建物の建材としたかというと、その武将たちの無念を供養するため天井に張り替えたとされています。

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伏見城の戦いの際に生まれた血天井

様々な城で血天井が生まれていますが、一番有名なのは伏見城由来の血天井でしょう。

関ヶ原の戦いの前哨戦として名高い伏見城の戦いで、徳川家康の側近鳥居元忠率いる1,800の軍が四万の敵軍相手に奮闘、城を枕に討ち死にしました。

その際、城はすべて焼き払われたとも、一部残り自刀した遺体は関ヶ原の戦いが終わり状況が安定する9月半ばまで城と共に放置され、そのため血痕が残ったとも伝わっています。

関ケ原の合戦後、徳川家康が入城し再建、将軍宣下がこの城で行われます。その後、三代家光までこの城で将軍宣下が行われますが、一国一城の考え方や、ほとんど使用されていなかったこともありその後、廃城となり建材は全国各地に移築されました。

伏見城の血天井の供養はどこでされた?

伏見城の血天井と呼ばれるものは、京都を中心に五つの寺院にありますが、とくに有名なのは、養源院でしょう。

三十三間堂近くにあるこの寺院、元々は豊臣秀吉側室の淀君が亡父浅井長政らの供養のために建立しましたが1619年により火災により焼失しました。

その3年後、淀君の妹であり、二代将軍徳川秀忠正室の崇源院により再建され、以後徳川家菩提寺となっています。

この火災後の再建時に、当時一部破棄されていた伏見城由来の建材が使用され、その中から血天井が作成されたといわれています。

伏見城由来の血染めの畳もある!

血天井が有名ですが、実は伏見城の戦い由来の血染めの畳もあります。

こちらは徳川家康により江戸城に登城する各大名に見えるように、江戸城伏見櫓の階上に設置され、徳川に忠誠を誓った鳥居元忠たちを偲ばせたといわれています。

明治維新での江戸城引き渡しの際、その畳は城外に持ち出され、鳥居元忠を祖とする鳥居家の壬生城にある精忠神社に安置され今に至ります。

その後の天下泰平の礎となった城

その後の日本の運命を決定付けた天下分けめの戦いの前哨戦と舞台となった伏見城。この地での激戦がのちの天下泰平の時代を築く礎となったことは間違いないでしょう。

現在見ることができる伏見城は当時建っていた場所とも違い観光用のものですが、伏見城の歩んできた道を顧みるとなかなか興味深い城です。

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