鳥居元忠の守った伏見城 その戦いが関ヶ原の戦いに及ぼした影響とは

Sponsored Links

天下分け目の戦いと名高い関ヶ原の戦い。

日本全国の大名家を二分して起こったこの戦いですが、関ヶ原の戦いまでの各地での前哨戦や大名たちの駆け引きがありました。

特に前哨戦として名高いのは鳥居元忠が守る伏見城を西軍が攻めた伏見城の戦いでしょう。

激戦でも有名ですが、その戦いが本戦に及ぼした影響とはどんな物だったのかを見ていきましょう。

徳川家康 股肱之臣:鳥居元忠

この鳥居元忠、徳川家康が幼少時に織田家、今川家に人質として滞在していた頃から付き従っていた側近の一人です。

家康元服後の様々な戦いにも従軍し、苦楽を共にした、まさに股肱之臣でした。

鳥居元忠が伏見城を守る事になったワケ

そもそも伏見城は、豊臣秀吉が晩年を過ごすために贅をこらせて築城し、そこで没しました。

その跡を継いだ一子、豊臣秀頼は、父:秀吉の遺言に従い大坂城に移動しました。

直後に、秀吉の織田時代からの盟友で五大老の前田利家が死没すると、石田三成を追放した徳川家康が伏見城に、留守居役という名目で入城します。

しかし、半年もせずに徳川家康も大阪に移動し、この時鳥居元忠に城の留守居役を命じたと考えられています。

Sponsored Links

伏見城の戦いが起こるまで

1600年、家康は上杉景勝に叛意有とし、自ら討伐軍を率い出陣します。

その機に乗じて、家康と敵対していた石田三成が決起し、鳥居元忠が守る伏見城を引き渡すように要求をします。

ですが、家康に留守居を命じれられた元忠は西軍側の開場要求に応じる事はなく、西軍側が力ずくで奪おうとしたことにより戦が起こりました。

この三成の決起に関しては、家康は薄々可能性を感じていたようで、出陣途中で伏見城に立ち寄り、鳥居元忠と半紙をしています。

「この城の装備は少なく心もとない。必要な武器弾薬の数を言え、この城に残しておくので」という家康に対して、元忠は「武器弾薬はこれから殿がいるもの、今ある以上は必要ありません」と答えたといいます。城攻めがあることを想定しての会話と思われます。

また、一説には中々行動を起こさない三成をおびき出すために、わざと上杉攻めに自ら出陣したともいわれています。

6ffcc6fb103271f9a4ab11f1113dd62a_s

伏見城の戦いが、関ヶ原の戦いに与えた影響

開城を求める西軍約4万に対し、伏見城の守備隊は1,800人でした。当初は3日間もあれば終わると思われていましたが、鳥居元忠率いる守備兵たちの必死の抵抗もあり、10日以上もかかってしましました。

これは、鉄砲の大量使用を前提に築城されたために、死角が少なく、弾幕を張られるとなかなか近づけないというこの城の特徴がもたらした結果でもあります。

そして、予想外に日数がかかってしまったため、西軍はその後計画していた、美濃・伊勢方面の攻略が出来ぬまま、家康は本拠地である江戸に戻ってきます。

また、家康は様々な大名と共に上杉征伐に出ていたため、従軍していた大名たちをそのまま支配下において関ケ原の合戦を迎えることができました。

Sponsored Links

この記事が気に入ったら
いいねで城の小ネタをお届け!

城ログの最新情報をお届けします

カテゴリー

ページ上部へ戻る