沖縄首里城の象徴 守礼門 この門の数奇な歴史とは

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沖縄観光名所の一つ、首里城。

その大手門にあたる守礼門は写真やテレビなどで一度は目にしたことがあるのではないでしょうか。

この首里城の守礼門の歴史は、沖縄の歴史でもあります。

首里城といえば守礼門 いつごろ建築された!?

首里城における守礼門の役割は、俗にいう大手門に相当します。

守礼門という呼び名は、門に掲げられている「守禮之邦」の扁額が由来ですが、これは俗称であり、本来は「首里門」と呼ばれます。

この由来ともなった扁額にも琉球国の歴史、守礼門の意味が込められています。

江戸時代初期の薩摩藩による統治が始まるまで、琉球は独自の政治形態・文化を持った独立国家でした。

首里城は元々琉球が三つの勢力にわかれていた時代、その一つ、浦添を拠点とする中山の支城として13~14世紀ごろに作られたと考えられています。

守礼門が築かれたのは、その後琉球が統一され、首里城が王宮とされ、さらに一度王朝が変わり第二尚氏王朝4代尚清王(1527~1555)の時代とされています。この時期の扁額は「待賢」でありその後「首里」となっています。6代尚永王(1573~1588)の時代に「守禮之邦」となりますが、この時期は「首里」と状況に応じて使い分けられていました。

9代尚質王(1648~1688)の時代に、常に「守禮之邦」が掲げられることとなります。琉球国は中国大陸に近く貿易なども盛んだったこともあり、明、清に従属する立場をとっていました。

そのため、琉球王が即位する際には中国皇帝より冊封使が派遣されていました。尚永王が明の万暦帝から冊封を受けた際の詔勅の一文が由来といわれています。

そのため、冊封使がい訪れているときは「守禮之邦」を、通常は「首里」の扁額を掲げていました。

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どのような役割のために作られたの?

守礼門が首里城の正門と思われがちですが、実は守礼門からさらに進んだ先にある石作りの歓会門が城郭内に入る最初の正門になります。

首里城の門の多くはこの門のように石で作ったアーチ形の城門の上に木造の櫓を乗せている作りで、琉球の他のグスクの城門とも共通しています。

守礼門の役割は正式な門としてではなく、扁額を掲げるための建築物、牌坊として建てられたと考えられています。

この牌坊は中国では伝統的に建築されており、琉球では城外に作り、ここで冊封を受ける時期国王が臣下を率いて冊封使を出迎えました。

太平洋戦争で消失してしまった守礼門

大政奉還後も首里城、守礼門は明治・大正時代と現存していましたが、太平洋戦争中の沖縄戦で消失してしまいました。

日本軍は首里城地下に巨大地下壕を掘りそこを総司令部にしたため、激しい攻防戦が繰り広げられ、首里城守礼門はもちろん、城下の街並みも破壊されてしまいました。

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復興の象徴としての守礼門

壊滅的な被害をうけた沖縄でしたが、人々の悲願のもと、終戦後から首里城、守礼門の再建が始まり、1958年に守礼門が再建され、1972年に沖縄が日本復帰を果たすと国の史跡に指定されました。

2000年に世界遺産にも登録されていますが、実は世界遺産に認定されているのは沖縄戦で奇跡的に残った遺跡群であり、再建された守礼門、首里城ではありません。

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