天下普請によって加藤清正らによって名古屋城が築城された理由

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金の鯱(しゃちほこ)で有名な名古屋城は、徳川家康が九男:義直(よしなお)のために建てた城です。

後には徳川御三家のうちの尾張徳川家の居城となりました。今では名古屋市のシンボル的な建造物でもあります。

この城の建設には、多くの大名たちの働きがありました。その中には、築城の名手である加藤清正や藤堂高虎の名前もあったのです。

しかし、遠く肥後熊本に本拠地のある清正が、なぜ名古屋までやってきたのでしょうか。そして、どのように築城に関わったのでしょうか。

清正が名古屋城築城に駆り出された理由

1610年、徳川家康は名古屋城の築城に着手しました。それに当たっては天下普請とし、諸大名に命令して工事を行わせました。

当時、大坂城の豊臣秀頼の勢力に備えて、家康は各地の城の整備に取り掛かっていました。そうすることで、大坂城包囲網を築こうという狙いがあったのです。

また、このようにして多くの大名を工事に駆り出すことで、監視しなおかつ江戸幕府への忠誠心がどれほどのものかを見る目的もありました。

そのためには、名古屋城も立派な城にする必要がありました。そこで家康が目を付けたのが、当時より築城の名手として知られていた加藤清正です。

彼が1591年に建てた熊本城は、名城の中の名城でした。名古屋城の築城には、必要不可欠な人物だったのです。

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名古屋城築城での清正の仕事

天下普請を命じられた大名たちは、石高に応じて普請場を割り当てました。

丁場割という分担場所は細かく分かれ、堀や盛り土、石積みの質や工期の早さを競わせたのです。

この中にあって、清正は自ら進んで天守台を受け持ちました。天守台とは、文字通り天守を支える土台のことです。

城の顔とも言える天守を載せる土台ですから、質・早さ共に最高の仕事をしなければならなかったはずです。そこをあえて清正は引き受けたわけです。

彼の仕事ぶりは見事でした。高さ20mにも及ぶ高石垣は、上面が天守1階部分の平面と同じ形の長方形をしており、わずか3ヶ月で完成しました。

このことから、清正の石積みがハイクオリティでありスピードもあったということがわかります。おそらく、他の大名には真似できないことだったのでしょう。

名古屋城天守台の石垣

清正は築城の名手として知られていましたが、特に優れていたのは石積みの技術でした。

彼の本拠地である熊本城の石垣は、扇の勾配という弧を描いており、地表付近は緩い勾配、上に行くに従ってきつい勾配となっていきます。これは武者返しとも呼ばれているものです。この石垣の特徴は攻め手からすると、勾配によって攻めにくいのと同時に、非常に強固な造りとなっています。

名古屋城天守台にもこの技術が使われており、当代一の石積みの技術が発揮された結果、名古屋城は威風堂々とした堅固な城となったわけです。

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まとめ

名古屋城には、「清正石」という巨石が残されています。清正が運んできたものとされていますが、実際は黒田長政ではないかと言われています。

また、石垣の石には、それぞれ大名の名前が彫られているものがあるので、探してみるのも面白いですよ。

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